銀行での常駐

7-1 銀行というところ
しばらくして私は、鹿児島銀行の事務センターに常駐することになった。
銀行だけあって、入館時は金属探知機を通過。
携帯電話のカメラ部分にはシールを貼られ、業務中はインターネットも見られない。
部屋への入退室はガードキーを使用するが、入力を間違えるとエラーになり解除申請が必要だった。
何度も間違えると契約が切られることもあり、常に緊張感があった。
特に辛かったのは、業務アプリケーションの更新作業が業務終了後に行われることだ。
夜間処理前の
20時〜24時以降に作業が集中することも珍しくなかった。
深夜、タクシー代をケチって1時間かけて歩いて帰ったことが何度あったかわからない。
それでも翌日は、8時30分出勤である。
作業を行うには、テスト仕様書を提出し、担当者と上長のハンコが揃わなければ進めない。
作業後も、エビデンス画像を貼り付けた結果資料を提出する必要があり、これがとにかく面倒だった。
さらに厳しかったのが、上下関係の強さだ。
鹿児島特有なのかは分からないが、行員さんたちは表向きは協力者として接してくれる。
しかし裏では、完全に下に見られていた。
行員同士の会話も、かなりえげつない。
ある行員さんが副調査役に昇進したときなど、人が変わったように天狗になった。
縦社会なのか、上には絶対服従。
上に立つと、みな一様に豹変する。
極めつけは頭取の登場だ。
事前準備でフロアがざわつき、ドアが開いた瞬間、全員起立。
無言で挨拶し、頭取は一人ひとりをじっと見ながら歩いて回る。
まるで『白い巨塔』の院長総回診。
この瞬間、頭取は気持ちいいのだろうかと、そんなことばかり考えていた。
7-2 自社メンバーとのコミュニケーション
自社メンバーとは、なかなかコミュニケーションが取れなかった。
私は中途入社だったこともあり、半ば毛嫌いされ、敵扱いされていた。
そこに愛社精神はなく、あるのは金だけという空気だった。
タッチタイピングすらできない上層部を、皆が内心で見下していた。
現状維持が最優先で、必死さだけが漂っていた。
多くのメンバーが、自社の上層部にうんざりしていたのだと思う。
先輩からは
「開発の腕がなければ生きていけない」
と釘を刺された。
社内もまた、生き残りをかけたサバイバル。
皆、「自分以外は敵」という空気だった。
7-3 COBOL技術者たちとの出会い
この職場で私は、システムエンジニアの行き着く先を見た気がした。
それが、50歳前後のCOBOL技術者たちだ。
COBOLは勘定系システムに今も残る希少な言語で、一昔前は花形だった。
しかし現在使われているのは、大企業の一部の古いシステムのみである。
彼らの多くは男性で独身。
結婚していても離婚経験者が多く、全国を転々として今に至っていた。
一人暮らし。
孤独死一直線――
そんな印象を拭えなかった。
若手も頑張ってはいたが、この先大丈夫なのかと不安になった。
不思議なことに、私は彼らと割と仲が良かった。
憂さ晴らしに付き合い、ゴルフや飲みにも連れて行ってもらった。
ただ、話題は悲しい話ばかりだった。
今、彼らが無事に生きているかどうかは、もう分からない。
自社のCOBOL技術者たちの末路も悲惨だった。
退職金を払いたくない会社は、理由をつけて彼らを追い出し、別会社へと流した。
私によくしてくれた先輩は、転職後に脳梗塞を発症した。
その後のことは、何も知らない。
7-4 レスミルズプログラムとの出会い
そして東日本大震災、契約終了へ
こうして、気づけば3年間。
私はがむしゃらに働き続けていた。
この頃、ゴルフとセイカスポーツを通じて、
レスミルズプログラム――ボディコンバット、ボディパンプと出会った。
そして、あの大災害が起きる。
東日本大震災だ。
日食があり、鹿児島の新燃岳が噴火した後だったと記憶している。
震災発生後、行員さんたちはテレビに釘付けになり、フロアはざわついていた。
この出来事を境に、私は日本経済と共に奈落へ落ちていく。
債務整理を最優先した結果、仕事が疎かになった。
肝心なところで休みが増え、完全に足元を見られた。
誰かにつけられている気がしてならず、実際につけられていたこともあった。
全力は尽くした。
だが、限界だった。
最終的に担当行員が自社営業へ連絡し、契約は終了した。
送別会は史上最悪だった。
自社社員は「いなくなって良かった」と言い、
行員からは冗談混じりだが本気で「金返せ」と言われた。
ゴルフにも行った仲だった。
それでも、私は完全に失敗したのだと悟った。
この言葉は、今でもトラウマとして残っている。
こうして、鹿児島最大の企業・鹿児島銀行との関係は終わった。
鹿児島の厳しさを、身をもって知った出来事だった。

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